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2010年12月30日の日記帳 「『うみねこのなく頃に』の真相の考察」

2010年12月30日(木) 「『うみねこのなく頃に』の真相の考察」

07th Expansion より4年に渡って発表され続けてきた「うみねこのなく頃に」シリーズが、12月31日に発表される『うみねこのなく頃に散 Episode 8 Twilight of the golden witch』で、遂に完結します。
『ひぐらしのなく頃に』の頃から、謎が謎を呼ぶストーリーに触発され、ずっと追い続けてきましたが、二作目の「うみねこ」シリーズも終わると思うと感慨深いやら寂しいやら複雑です。
間もなく終わってしまうということで、せっかくなのでここまで考え続けてきた「うみねこ」の世界の考察をちょっと書き殴ってみようかなと。
「自ら真相を考えてみること」が、この作品の一番の楽しみ方でもありますし。

以下は、『うみねこのなく頃に』のEpisode 5 End of the golden witch までを読んだ冬野の考察が書かれています。
Episode 6〜7 の時点で既に否定できる部分が含まれているかもしれませんが、まだ読んでない以上考察に含めることができないのでご了承ください。
また、もちろんネタバレ満載ですので、ご注意ください。










この世界の構造

『うみねこのなく頃に』(以下『うみねこ』)の世界は、一見するとEpisode 1〜5 まで全て違うストーリーになっていますが、『ひぐらしのなく頃に』(以下『ひぐらし』)のように時間を巻き戻していくつもの世界を作り出している(平行世界がいくつもある状態)のではなく、一つの世界しかないのではないかと思います。
Episode 1(以下EP1)における、在島者18人全員が死亡したという事実のみが六軒島に起きた客観的事実で、それ以外の『うみねこ』の物語は、全て1986年以降に生きていた誰かによって創作された物語なのではないかと。
そんな考えに至ったのにはいくつか理由があるのですが、大きなものとしては、EP3以降繰り返し用いられる「シュレディンガーの猫箱」。
箱の中を観測するまでは、猫が生きているのと死んでいるのと二つの状態が同時に存在し得ることというものですが、これはつまり、未来から六軒島を観測して創作しようとしてる「物語の語り手」(以下「語り手」)のことを示唆しているように思えたのです。
つまり、六軒島で起こったことの証拠がない以上、「語り手」にはいくつもの解釈が許される。
その解釈の結果が、EP1〜5まで(恐らくそれ以降のEPも)の経過の違いに表れているのではないかと。

その考えを決定的にしたのが、『うみねこのなく頃に Episode 4 真相解明読本』を読み返している時に見つけた以下の文章です。
「私はね、女房を愛してる。今日まで浮気を疑ったこともないし、女房と同じ日に同じ畳で死ねたら最高だと思ってるよ。胸を張って、息子や孫たちに、最高の人生だったと語って大往生できる。そして、それを見た息子たち孫たちは、祖父さまは最高に幸せな人生を歩んだと、確かにそう言ったと語り継ぐだろうねぇ。しかし、直接聞いた子孫がみんな死ぬほどの未来。……俺の末裔が、死んだ曾祖父さまは不幸で、夫婦仲は悪く不倫だらけだったと言い出したらどうなるかねぇ? それを否定する証拠に、俺は何を残せばいいんだろうねぇ? 何を残したって、疑う未来のそいつの元に届かなきゃ、意味がない。」
「……………。」
「もうね、あんたらの追い求める六軒島の真実なんて、何も存在しないんだよ。あれから長い時間が経って、全ての証拠が消え去った。……だから、あんたらが好きに決めればいいのさ。だが、あんたらが何を決めたって、当時の本当の真実は揺るがない。」

『うみねこのなく頃に Episode 4 真相解明読本』5ページ 「あるウィッチハンターの取材テープ」より
「真実」を追い求め、「あんたらが好きに決め」た結果が、『うみねこ』の物語であろうと。
だって、その場に居た者が全員死亡している以上、「真実」なんて見えるわけないんですから。

このように考えると、どうしてもぶつかる壁が、「絵羽が生き残ったEP3の物語の位置づけ」です。
EP1〜5の中では唯一、六軒島から生還した人物となっています。
「在島者18人全員が死亡したという事実のみが六軒島に起きた客観的事実」とする僕の仮説と矛盾する現象となっており、これをどう解釈するかで悩みました。

結論としては、これも創作された出来事なのではないかと思います。
なぜなら、チェス盤をひっくり返して「語り手」の目的を考えれば、縁寿を物語に登場させるのは創作として面白いから。
縁寿は、右代宮家の会議に出席する立場にありながら、唯一難を逃れています。
後世から見れば、これほど面白い存在もないでしょう。
「失われた家族を求めて奔走する姿」を描けば、読者に感情移入してもらいやすくなりますし、「兄さんを返して!」なんていういかにもステレオタイプでありながらも興味は惹きやすい妹像は、読者の心をくすぐりますし。
実際縁寿は、公式サイトのキャラクター人気投票でも毎回上位を占めていますし、創作に登場してもらうキャラとしては申し分ないわけです。

数多くの人物の中で絵羽が生き残ったのも、同じく創作の都合。
絵羽はこれまでのエピソードの中でも、譲治に溺愛している姿は描かれていますし、縁寿と絵羽が憎しみ合うという昼ドラみたいな姿で女性の心を掴むのに好都合なわけです。
そして決定的なのが、生き残った絵羽は、六軒島で起こったことを何一つ語っていないことです。
語らないのは当たり前、「六軒島の真実を見てきた絵羽」なんて実在しないから、創作の上とはいえ下手なことを語らせるより、愛する家族を失った恨みを抱えて生きた姿を描いておいた方が無難。

籠の鳥であった縁寿が逃亡するストーリーも、物語として面白いから描かれる。
縁寿が関係者を訪ねて話を聞いてるシーンは、これは「語り手」の取材を元にしていると思われます。
そして、六軒島の崖で須磨寺霞と対峙するなんて、もう刑事ドラマのラストシーンかよ! って感じになって、1998年の創作物語は一丁上がり。

また、EP5の「愛がない物語」というのは、夏妃一人を犯人に仕立て上げようとしていることを指していると思われます。
EP5の終盤に地の文で書かれた「真実は、実際に確かめられるまで、決めつけられてはならない。この法廷は、確かめることの出来ない真実を、何かひとつに決め付けようとする、悪意あるものだ。」こそが、「語り手」がEP5で「世間」に訴えたかったことに該当するのでしょう。
つまり、証拠もないのに六軒島にいた誰かを犯人とする論を打ち立てている者たちへの警鐘を鳴らすのが目的で書かれたのがEP5というわけです。
その証拠に、主人公である戦人はEP1〜4において、右代宮家やその関係者を犯人にしようとは考えていません。
『うみねこ』プレーヤーの中でたまに、主人公の戦人が18人の中の誰かを犯人と決めればベアトリーチェ(以下ベアト)に勝てるかもしれないのにそれをやらない、勝つ気がないんじゃないかと言われます。
物語の方向性を決定づける主人公が18人の中の誰かを犯人と決めないのは、先に挙げた「語り手」の意志によるものなのでしょう。

【以下、12月31日4時半追記】

連続殺人事件なんてない。あったのは「連続殺人幻想」

上では、「在島者18人全員が死亡した」のは事実としました。
では、どのようにして死に至ったのでしょうか。

EP3のワルギリアによれば、第一の晩を例にとって「経過がどうあれ、目の前にある結果こそが全て」と言っています。
ここに「在島者18人全員が死亡した」という仮定の結果を合わせればどうなるか。
これが、『うみねこ』の世界なんじゃないかと思います。

EP1において、警察の捜査でも誰の遺体か判然とせず、「想像を絶する凄惨な現場状況に、警察は子どもたちも含めた18人全員の存命は絶望的だと思わざるを得ませんでした…。」という描写になっています。
ここから考えるに、現場は原形を留めないほどに荒れ果てていたのではないかと思われます。
また、EP4では、島を訪れた縁寿が、屋敷に向かおうとする途中で崖に遭遇し、先に進めなくなっています。
これらを総合すれば、つまり、「1986年の台風の影響でがけ崩れや土砂災害の類が発生し、屋敷にいた右代宮家及びその関係者は飲み込まれ、全員死亡したとしか考えられない状況になった」のではないでしょうか。 実際、1986年10月5日以外の場面では、その日の出来事を明確に「連続殺人事件」と呼ぶことはなく、むしろ「不幸な事故」という言い方が大勢を占めています。
ということは、後世から見て確かに言えることは「不幸な事故」が起きたことのみということでしょう。
死という事実のみがそこにあり、台風に閉ざされた10月4日〜5日に何があったかは永遠に知ることができない。

ここで重要なのは、右代宮家に様々な噂があったことでしょう。
金蔵が隠し持ってるとされる10tの黄金や、その財産を巡る兄弟間の確執――挙げればキリがないほど「右代宮家に何かある」と思わせるに十分なネタが揃っています。
「不幸な事故」に巻き込まれたのだと見る人にとっては、そこで六軒島の話は終わります。
しかし、右代宮家にまつわる様々な噂を知った上で「不幸な事故」の裏側に考えを巡らせた人物は、もしかしたら自分たちが知らないところで何かが起こっていたのではないかと勘ぐるわけです。

歴史を見ても、それは明白なこと。
ケネディ大統領暗殺では、オズワルドが実行犯とされました。
オズワルドが犯人であると考える人にとってはそこで終わり。
しかし、様々に考えを巡らせ、オズワルドが犯人であるとする発表に納得できない者にとっては、ケネディ大統領暗殺は未解決事件であり、当時の警察の捜査の不審点やルビーなどの人物に視線を向けることになります。
ここまで大規模な事件でなくとも、日常においても釈然としないものがあれば疑いの目を向けてしまうのが人というもの。
でも、その真実は「悪魔の証明」であり仮説があっても「シュレディンガーの猫箱」ということになりますが当時を再現することができない以上箱を開けることはできず、真相は「藪の中」です。

『うみねこ』の物語においては、「不幸な事故」が起こる直前の、閉ざされた10月4日〜5日に目を向けた好事家たちが好き勝手に解釈しているのでしょう。
そして、様々な説を元に「語り手」が創作して作ったのが『うみねこ』なわけです。
『うみねこ』の各エピソードでは、10月5日が終わる瞬間が重要視されていて、毎回時計が鳴って、物語がそこで終わるという描写がされています。
なぜでしょうか。

10月5日が終わる瞬間が、「語り手」が創作できるシーンの終わりだからです。
10月6日は台風が過ぎ去り、外部の人間が観測していて創作の入り込む余地がありませんから。
10月5日の終わりは、創作できるシーンが終わってしまった、すなわち、無限の可能性を思考できる魔法が解けてしまったという象徴と言えるでしょう。

連続殺人事件なんてものはあったんでしょうか。
なかったとしてもそれは「悪魔の証明」です。
あったとしても、それを否定することはできません。
「不幸な事故」が起こったことにより、事故で死に至ったのか、事故に遭う前に殺害されていたのかは分からない状態になっているのですから。

本当にあったかどうか分からない。
だからこそこの物語は「連続殺人幻想」と冠されるのだと思います。

「私は、だぁれ…?」

EP4において、ベアトが最後の問いかけを残します。
「………この島にあなたはたった一人。そしてもちろん、私はあなたではない。なのに私は今、ここにいて、これからあなたを殺します。」 「…………私は、だぁれ…?」
戦人はこの謎に関して、「ベアトリーチェが魔女でいることが出来る、……“最後の謎”」と考えています。
果たして「私」は誰なのか。

ここまで長々と語ってきたことから、戦人を殺した「私」は、「不幸な事故」、仮説に基づいた言い方をするなら「土砂災害の類」だと考えます。
ベアトリーチェが魔女でいられる魔法が解ける10月6日になった瞬間、それまでの魔法による「連続殺人幻想」は現実の「不幸な事故」によって上書きされ、その時間まで生き残ってた者も問答無用で皆殺しにしてベアトリーチェの役目が終わるわけです。
EP1では、10月5日24時の時点で戦人・朱志香・譲治・真里亞が生き残っていましたが、その時点で物語は終わり、エンドロールでは行方不明となっています。
ちなみに行方不明でも、一定期間を経ると死亡扱いになるため、現実の解釈としては死亡とみなしても良いと思われます。
EP2では、戦人・源次・楼座・真里亞(・金蔵)が24時まで生き残った描写がありますが、最終的に行方不明(死亡)となっています。
逃げ惑う楼座や真里亞を山羊の家具が追いかけるシーンは、24時以降生きることができない運命を象徴しているように思えます。
EP4では、最後まで生き残った戦人も、エンドロールによれば死亡しています。
そしてEP3では、絵羽が24時の壁を乗り越え、生き残っています。
仮説の中では絵羽が生き残ったのは創作ということになるのですが、ここにも重要な点がある気がします。
つまり、後年から見れば六軒島の中でも生き残れる場所があった、「不幸な事故」(土砂災害)が及ばない場所があったのではないでしょうか。

この物語のテーマは「愛がなければ、視えない」

この物語が伝えたかったことはこれに尽きると思います。
どんな証拠を持ってしても、見る人が信じなければ証拠足りえない。
悪意を持って解釈すれば、真実はねじ曲げられる。
だからこそ、「愛がなければ、(真実は)視えない」のだと伝えたかったのでしょう。





随分長いこと書きました。
体力的にこれが精一杯です。
ただ、最終話のEP8の発表までに世間に公表したかった最低限のことは書けたつもりです。
あとはこの考察が、EP8においても通用するものであればと願っています。

最後に、これほど噛みごたえのある物語を作った竜騎士07さんに感謝と尊敬の念を。
黄金の魔女に栄光あれ。

参考文献

  • 『うみねこのなく頃に Episode 1 真相解明読本』
  • 『うみねこのなく頃に Episode 2 真相解明読本』
  • 『うみねこのなく頃に Episode 3 真相解明読本』
  • 『うみねこのなく頃に Episode 4 真相解明読本』