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序章

 緑が、新緑の色がどこまでも続いていた。
 季節は夏。太陽が真上に昇り、日差しが容赦なく照りつけている。生き物が生活するには苦しい暑さで、植物さえも根負けするように弱っていた。
 そして、ここにも一人、暑さと必死に戦っている青年がいた。顔中が汗まみれで、あごから汗がしたたり続けている。暑さで他には何も考えられないのだろう。ひたすら前だけを見据えている。一歩一歩踏みしめるように歩く様子には、力強さよりもむしろ悲壮感を感じさせた。
 どれだけの時間が経っただろうか。青年は立ち止まった。もはや限界だった。空を見上げてみたが、先程と太陽の高さがほとんど変わっていないように見える。覚悟は決まった。しばしの間ここで休むことにした。肩にかけていた荷物を下ろすと、疲れが一気にあふれ出し、また汗が出てくるようだった。青年は木陰の下に向かい休もうとした。
 だが……その時、何か違和感を感じた。木々の先に何かが見えた気がしたのだ。もう一度目を凝らしてみても、道の上とは対照的な薄暗い景色の中では確認できそうになかった。
 覚悟は決まった。
 一度下ろした荷物を担ぎ上げ、迷うことなく緑の生い茂る森の中へ入り込んだ。青年の旅に目的はない。更に言えば、興味の赴くままに旅を続けていくのがルールだった。山の方に向かうことを決めたのも、まだ行ったことがない方角だったからだし、ここで深い森の中に分け入っていくことにしたのも、何の変化もない風景が続いた中で見つけた小さな変化に興味をそそられたからだ。探し始めてしばらくすると、突然、開けた場所に出た。
 そこにあったのは、大きな建物だった。
 木が数多く生い茂り、およそ建造物とは縁が遠いと思われる環境で突如現れた建物に、青年は動揺を隠せなかった。規模の大きさに圧倒されると共に、青年の心を惹きつけたのは外壁の色だった。
 空の青と、同じ色だった。
 木々に囲まれ、緑が支配するこの森の中において、目にも鮮やかな空色は鮮烈で幻想的だった。空がそこにあるかのような不思議な感覚が青年を襲い、空高い場所にいると錯覚してしまった。心を落ち着けて、改めて青年が建物を観察してみるが、一見して何の建物であるかは想像できない。見たところ二階建てほどの高さで、奥ゆきはかなりあるようだ。盗賊のアジトにしては大きすぎ、城にしては高さがない。外壁は一枚板のような感じで変化がなく、つるつるとしていた。こんな素材は見たことがない。
 印象を一言で言い表すなら、現実感がない、だった。まるでこの場所だけ世界から切り離されているかのような違和感があり、おとぎ話の世界に迷い込んだのかと錯覚してしまう。
 さまざまな疑念が頭をかすめたが、頭を振って考えるのをやめた。外で思案していてもしょうがない。突如現れた謎の建物を前にして、青年は正体を確かめずにはいられなくなっていた。そのためには、結果はどうあれ行動を起こすしかない。彼は唯一の扉と思われる場所の前に立つ。唾を飲み込んだ後、ゆっくりと扉を開けた。



 外の鮮やかな印象とは対照的に、中は薄暗かった。あまりのギャップに目がついて行かず、最初は何も見えなかったが、しばらく目を凝らしているうちに徐々に慣れてきた。そうしてまず最初に見つけたのは、カウンターとおぼしきものだった。酒場のカウンターに見えなくもないが、それにしては小さく、人が座れるような椅子もなかった。どちらかというと、宿の受付に近いと思われた。
 次の場所を探ろうと目線を奥に向けたところ、青年は目を疑った。カウンターのすぐそばの所から見える範囲全てが、棚しかなかったのだ。それも、中身は全て本のようだった。試しに一番近くの棚に向かってみたが、何段にも渡る仕切りの中に納まっているのは正真正銘の本だった。青年には読めない字の本ばかりが並べられ、手に取ってみるとずっしりと重みを感じると同時に、丁寧に扱われていると感じた。
 棚をいくつも見て回ったが、やはり棚の中に入っているのは全て本だった。青年には、一体ここには何冊の本があるのかという考えが頭から離れないでいた。奥の方がかすんで見え、本当に端があるのかと疑わしくなってしまう。先程感じた現実感のなさがいよいよ現実味を帯びてきたような気がして、当てもなくひたすら奥の本棚へと歩き続けていた。
 もう戻れないのではないかという焦燥感が、青年をただ奥へと突き進ませ、歩みを止めることが出来ないでいた。前を見るとさっきまでと同じ光景が続いているような気がして、後ろを振り返る勇気も出せなかった。右、左、右、左と足を交互に踏み出す動作を続け、それがだんだんと速くなっていく。走るのと大差がないほどに速くなったその時、青年の足がぴたりと止まった。いつの間にかつま先に向けられていた顔が弾かれたように上げられる。そして数歩戻り、そっと左側の本棚の列に顔を向けた。
 そこには、女がいた。
 椅子に座って本を読んでおり、一心に本を見つめ続けていた。現実感を失っていた青年にとって、はっきりと現実を感じられる女を見つけたことが何よりも救いだった。
 女は青年に気づいている様子は少しもなかった。ゆっくりとページをめくっていく仕草には本への愛情が感じられ、規則正しくまばたきをする姿に声をかけるタイミングを失ってしまった。だが、青年は声をかけずにはいられなかった。
 よほど集中しているのだろうか。女の呼吸もまばたきも少しも乱れることはなかった。青年が独り言を呟いたかのように、ただ言の葉がむなしく響いただけだった。自棄やけになった青年はもう一度、今度はさらに大きな声をかけた。
 すると、女はふと不思議そうな表情をしたかと思うと、ゆっくりと顔を上げた。目線があちこちをさまよう内に、青年と女の目が合った。まばたきが一回、二回と繰り返されていき、しばらく続いたかと思うと、読みかけの本を閉じ、女がおもむろに立ち上がった。青年との距離を一歩ずつ縮めていき、女と青年が向かい合う形になる。そして、女が青年に笑いかけ、こう言った。
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2009年4月26日 公開