「親が正しくないって幸せなことなんだから」
アニメ「花咲くいろは」
12話「『じゃあな。』」より
自分にとって、親は絶対的に正しいものだった。
親どころか「大人」の全てが正しく、神みたいに思えてた。
だから親の言うことも先生の言うことも完全無欠なもので、自分はそんな神のごとき存在にはなれないと思ってた。
一生「子ども」のままで、「大人」になんかなる日は来ないのだと思ってた。
子どもの頃、自分の寿命は小学生で尽きるなんて考えてたのは、そんな背景からだったと思う。
「大人の言うことは正しい」という点で迷いがなかったことが、自分を素直で真っ直ぐな子にしていたように思う。
周りに何を言われても、「大人に褒められる自分」に正義があり惑わされる必要がなかったのだから。
揺らいだのは中学の時。
決定的なターニングポイントは分からない。
「小学生が寿命」という壁を越えたことかもしれないし、小学生の時よりも自分で決める範囲が広がって「大人」の立場に近づいて苦労を知ったからかもしれない。
絶対神だった親父が小さく見えたからかもしれない。
分かったのは、「大人」が実にいい加減な存在だってこと。
人を簡単に傷つけるし助けないし責任も取らない。
こうしてかつての自分は壊れ、思い知った。
小学生で死ぬというかつての思い込みは幻想でも何でもなく、現実として自分に降り掛かったのだと。
「親が正しくないって幸せなこと」だったのだ。
「親が正しい」と子どもが縛り付けられてしまう。
「花咲くいろは」では、正しい親を持った皐月は、親の正しさの前に我慢を重ねて何も言えないでいた。
皐月は正しくない親になり、子どもの緒花は親の傍若無人さに我慢を重ねて苦労することになるのだが……。
思うに、子どもが子どもから抜け出す一歩っていうのは「親が正しくない」ことに気づく瞬間だ。
「親が正しい」状態は、親の価値観が全てであるということ。
それでは世界は広がらない。
「大人が――親が正しくない」と知ったあの時から、自分の世界はたぶん広がって見えるものが増えたと思う。
「花咲くいろは」の皐月が親のスイを「正しい」と認めながらも、それでも歯向かったあの時は、「親の正しさ」を壊した瞬間で。
緒花が、自分の仕事を侮辱した親の皐月に抵抗したのは、「親が正しくない」ことを認め、吉翠荘という別の尺度でものを捉えられるようになった証のように思えた。
今、自分にとっての親は「正しい」存在ではない。酒は飲むし煙草は吸うしとんちんかんなことを言うしとんでもないことをやらかす。
たぶんそれでいい。
「正しくない」親を見ることが、あらゆる他人との関係を築くことに繋がる。
今の親は「正しい」尺度から解放され、対等な他人なのだ。
おそらく、「正しくない」ことを見せつけることが、親が子に贈る最たるものなのではないか。
アニメを見て少し振り返って、そんなことを考えた。
そうして考えてみると、自分は後輩に対して結構無責任でとんでもないことを言ってたりする。
「どうせ適当にやっても単位は取れる」「世の中金さえあれば何でもできる」「先輩は利用するためにいる」。
もしかしたら、「正しくない親の姿を見せつける」という意識が、無意識に働いているのかもしれない。